Junkoの自伝的プロフィール
(オープン記念バージョン)
 
北海道は夕張市の生まれです。
今や夕張メロンで有名ですがその昔、炭坑がさかんだった時代と言っときましょう。

4月26日が誕生日です。
偶然にも父と同じ日に生を受けました。
4人兄弟の末っ子、長女。実家は大衆食堂を営んでおりました。
いわゆる看板娘ですよ。
A型の父とB型の母の間に生まれて私はA型。3人の兄達はB、O、ABと、
全血液型がそろう標本みたいな家族です。
当然みんな勝手でバラバラ。
よく言えば独立独歩ってやつ!?。
お陰で兄達の三人三様の音楽に影響されて、こんなにグローバル(?)な歌手に育ちました。
ちなみに長男(AB 型)はアメリカンポップスの60’s、
次男(B 型)はサックス、トランペットなどのインストもの、
三男(O 型)はシュープリームスなど、モータウン系ソウルグループものと言った具合。
すばらしい音楽環境でしょ!?。

活気があるとは言え、くら〜いイメージの炭坑町で思春期を過ごしました。
憧れはオードリー・ヘプバーンの映画に出てくる鮮やかなアメリカと都会。
そして唯一自分で見つけた音楽はボサノバ
日本中の若者達がジュリー、ショーケンと騒いでる中、
私はひとりセルジオメンデス&ブラジル66’にハマっていたのでした。

コーヒー(もちろんインスタントでしたけど)が好きになったのもこの頃です。
喫茶店に入った途端のコーヒーの甘い香りが魅惑です。
デビュー以来、ステージドリンクにホットコーヒーと言うのも私くらいでしょうか。
先ず、朝起きてボーっとしながらのコーヒータイムが重要なのです。
この落ち着いたひとときがないと一日中、慌ただしく感じられて乾いた一日になってしまう。
出がけの5分、10分でいいのです。ホッと一息が大切なのね。

さて、早く家を出たい、大人になりたいとジリジリしながら高校生活を終えて、
札幌の短大入学を機に夕張を出ました。
自立するには自活しなきゃ、自活するには手に職を‥‥。
アナウンサーになりたい、と進学に反対の家族を説得して下宿生活を獲得しました。

学校では放送研究会に籍を置き、お隣の北海道大学の軽音楽クラブでバンド初体験をしました。
子供の頃から歌うのが好きで、得意でしたから一度バンドで歌ってみたかった。
高校時代に歌える場所は合唱団よりなく、
グループサウンズやベンチャーズのバンドでは女子は入れなかったのです。
念願のバンドでリードヴォーカルの座を得て、私の短大生活は充実そのものでした。
一年先輩のジェットマシーンと言うバンドは単なるハードロック・バンドではなく、
白人ブルースの要素を兼ね備えたバンドでした。
(もちろん今だからこう説明出来るのですけど)
何しろ初めて聞くハードロックにはカルチャーショックを受けました。
おまけに私にコピーして来いと渡されたレコードは、
これまた初めて耳にするジャニス・ジョプリンだったのですから。
もう、ぶったまげたったら‥‥。
驚きとショックと、激しさと魂の叫びに、しばし圧倒された事は今でも忘れられません。
必死でコピーしようとするのだけど最初はシャウトが出来なくて‥‥。
先輩達はのどに声をぶつけるんだよ!と言うんだけど。
アレコレやっている内に出来た、わかった!

その次の壁は‘成り切る’ってことかな?。
歌のフィーリングだろうけれど、これは流石に難しい。
何とか聴き込んでジャニスになろうとするんだけど、歌い癖のテクニックではなくたぶん、
内なる感情の叫びなのだろう。
フィーリングと言うには軽すぎる。
遂に私はお手上げ状態
生き方が違い過ぎると認識したのだ。
彼女の歌はその生活環境、生きざまに他ならないと。
だって私がジャニスを知った時はすでに故人となっていて、その凄まじい人生が語られていたから。
それでも数曲コピーして私なりにジャニスを歌ったりしました。
他にはスミス、C.C.R、なぜか男性ヴォーカルのバンドものまで。
まるコピーだから現キーなのよ。
お陰ですっかりノドが強くなり高音が出るようになりました。
今の大橋純子があるのもここが原点かも知れません。
好奇心旺盛な時期ですからバンド仲間からの音楽の影響も素直に受けて、
すっかりロック好きになりました。

丁度この頃、地元北海道放送で深夜放送のディスクジョッキー募集を見つけ、
運良くオーディションに受かり、2時間と言う枠を得ました。
私はまさに今の自分の興味をこの番組に映し出しました。
自分が好きな曲、聴きたい曲を選曲し、語りました。
ずいぶん後になって北海道初のロック専門番組と言われたそうです。

時の経つのは早いもので1年が過ぎ、2年が過ぎ、
70年安保の波が北海道にも押し寄せて北大構内にバリケードがはられ、
デモがねり歩き、バンドの練習どころではなくなりました。
私はと言うと放送局の就職試験を受けましたが見事に落っこち、
途方に暮れたまま軽音の先輩の紹介で歌のバイトをし始めました。
もちろん、すすきのです。
親には内緒で半年程。
こうなったら歌で勝負しかないか、と上京する事に。
親からは半(?)勘当されました。
運のいい事に上京して半年くらい、
(当時恵比寿の駅前にあった)ヤマハ音楽振興会のバイトを紹介してもらいました。
ここで運命が決まる事になるなんて!

私の人生一言で言うと、‘ツキ’かしら?!。
人との出会いが運をつれて来てくれる。
このヤマハ時代に出会った人たち、出来事そしてデビューへの約半年が
歌手、大橋純子の音楽的基盤を作ったと思えるからです。
バイトで入った部署は「L.M制作室」と言ってポピュラーソング.コンテスト関連の仕事をしていました。
室長は今や大編曲家の萩田光雄さん、他に船山基紀さん、
作曲家の佐藤健(私のパートナー)など当時バイトや契約でいたのですから
今考えるとすごい部署ですよね。
もちろん周りにもこの音楽業界を支える著明な人達が右往左往してました。
L.M制作室の6人のメンバーから多大な影響を受けて音楽の幅も広がりました。
そして作ったのがスーパーマーケットというブラス入りのバンドです。
ヤマハのロビーやライブハウス、ポプコンの地方大会のゲストまでステージが広がりました。
そうこうしている中、レコード会社のオーディションの話が持ち上がり、
このバンドの協力でデモを作りデビューに至るのです。
スーパーマーケットはこの時点で解散、丁度年も新たまり、それぞれの道を歩むことになりました。

私の希望とは反してソロ・デビューとなりました。
1974年6月「フィーリング・ナウ」と言うアルバムで日本フォノグラムよりデビューを果しました。
上京して1年半くらい経った頃でした。
ここまでが子供時代から歌手.デビューに至るまでの
(かいつまんだ)大橋純子のヒストリーです。

長々とおつかれさま、サンキュー

 
J.Ohashi
 
業務用プロフィールはこちら

copyright(C) junko-ohashi.com All Rights Reserved. 
Mail to management office

Mail to Junko Ohashi

Mail to web master